今を生きる希望
空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。(伝道者の書1章2節)
この言葉を語ったのは、仏陀ではありません。仏陀より前のイスラエルのソロモン王です。ソロモンは、強大な権力と知恵を得た人物ですが、そんな彼がこの世で感じたことは、すべては「空(くう)」であり、虚無であるということでした。それはまるで哲学者の言葉のようです。確かにこの世は過ぎ去る幻のようなものです。
私たちは生きている限り、必ず年を取って死にます。それは誰に対しても公平な事実です。どんなに美しい人でも、その美は衰え、どんなにたくましい人でもその力を失います。悲しいことですがそれがこの世の定めです。
この世が空で、死後の世界が無いなら、死ぬまでこの世にしがみつきたいと思うのは当然でしょう。いかに死を遠ざけて今を生きるかがすべてとなります。
しかし、死んだら無だと信じている人でも、お葬式では故人に向かって、「天国で見守っていてください」などと語ります。故人に向かって、「とうとう無になりましたね」などとは言いません。そんなことを言うのは、どこか不敬虔だと感じるからです。どこか良心に反するのです。
人間の厳かな死とは、死んだら無になるという思想とは、なぜか相容れないのです。人は誰でも心の底では死んだら天国に行きたいと思っているのです。しかし、死後の世界を科学で説明できないので、さばきを忘れるために無を持ち出すのです。
しかし、人は生まれながらに、永遠を思う心が与えられているのです。誰でも自然や神々に感謝したくなるのは、人間には宗教心があるからです。動物には宗教はありません。この人間と動物の違い、それは進化論では説明できないものです。人は生まれながらに神を求めるようにできているのです。しかし、真実の神を認めずに、自分で作った神々を信じようとするのです。それは偽りなので罪となります。偶像はもともと人間の手による作品です。だのに人はその像に手を合わせ、ひれふします。動物でもそんな事はしません。それは人はどこかで神を怖れているからです。しかし、分からないので、心をなだめるために神々を作ります。人は自分が分かっていないのです。死後を恐れながら忘れようとし、自作の神々に願いごとをします。無知なのです。
しかし、キリストを信じる真のクリスチャンは、真の神を知り、死後の希望があるのです。それは神の約束です。それがキリストの福音(良き知らせ)です。
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。
それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル人への手紙11章13-16節)
過去の信仰の人々は、この世で神の約束を手に入れることはできませんでした。なぜなら、この世は空だからです。信仰者にとって、過ぎ去って行くこの世は通過点であり、自分は旅人であり、寄留者でしかありません。しかし、その先には神に約束された場所があるのです。それが神の国です。死は天の故郷への道です。
しかし、誰でもそこへ行くことはできません。人は罪人だからです。罪が贖われない限り、人は罰を受ける存在です。しかし、キリストの十字架の贖いにより、人は罪を赦され、無罪となって、死後に神の国(パラダイス)に行くのです。そこにはキリストが待っています。ですから、死は絶望ではなく、愛する主人キリストに会える道となります。
「そんなおとぎ話を信じているの?この世の幸せをあきらめるの?」と人は言うでしょう。もちろん、この世においても信仰者には幸せがあります。それは神が与える平安をいただけることです。
神の約束を信じられる確証のひとつに、聖書の預言があります。聖書の預言の歴史的な確かさは、この神の約束の保証でもあります。神は現実に聖書の預言通りに事を行って来ました。
その神の約束が、死後のさばきと、キリストを信じる者の無罪判定と神の国の相続です。(詳しくは「死後の世界」の項目をお読みください)
ではクリスチャンにとって、死ぬことだけが希望になるのでしょうか。生きているクリスチャンにとっては、この世に何も希望は無いのでしょうか?
いいえ、この世に生きるクリスチャンの希望は、人生の荒野における神の守りと、この世に再びキリストが帰って来るという約束を信じて待ち望むことです。
この世はどんなに時代が過ぎても、決して物事は良くなりません。かえって堕落して行くのです。この世に希望を抱けば失望するのみです。初代教会の時代から今日まで、真のクリスチャンの希望は、キリストの再臨です。キリストが再臨しない限り、この時代は過ぎ去らず、悪はなくならないからです。
空中再臨(携挙)
使徒パウロがテサロニケ教会に向けて書いた手紙の中に、このような一節があります。
私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(Ⅰテサロニケ 1章9~10節)
復活後にオリーブ山から天に昇ったイエスは、教会を迎えに戻って来ると約束しました。これを空中再臨、または携挙(けいきょ)といいます。
眠った人々(死んだ信仰者)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(Ⅰテサロニケ4章13~18節)
携挙がいつ起こるかの解釈は、プロテスタント教会でも統一されていません。その日、その時は分からないのです。しかし、7年間の大患難時代の前に携挙があるという考え、その中盤に起こるという考え、その大患難時代の終わりのキリストの地上再臨と同時に起こるという、おもに三つの考えがあります。
しかし、面白いのは、ユダヤの結婚の伝統の中に、キリストの空中再臨(携挙)のひな形があることです。ご紹介しましょう。
キリストの花嫁である教会
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる(創世記2章24節)」
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
(エペソ5章23~32節)
キリストを信じた人の内には聖霊が住まわれ、その人は聖霊の宮となり、神の教会につながれます。その教会とは、地上にある教会組織ではなく、キリストの昇天以来創造されているキリストの花嫁です。聖徒はキリストを頭とするからだの器官であり、ひとりの人になるのです。
ユダヤの伝統では、男女が結婚すると、もはや二人ではなく、ふたりはひとつの体です。キリストと教会が、いつの日かひとつになるという奥義が、男女の結びつきに秘められているのです。このユダヤの結婚の伝統に、驚くべきひな形が隠されています。
●花嫁選び
ユダヤの結婚では、まず花婿が花嫁を選んで、自分の父親に話をします。花婿の父が息子のために花嫁を決めることもあります。花婿の父親は、相手の花嫁本人ではなく、花嫁の父親の所に行って話します。花嫁の父は、花嫁に結婚の意思を聞きます。花嫁の了承が取れたら、婚約式の準備に入ります。ここに比喩があります。花婿はキリスト、花嫁は教会、花婿の父は神、花嫁の父はサタンを表します。
神は人を愛し、キリストもその人を愛しています。人はキリスト福音を聞きます。それは神からのプロポーズです。人はキリストを花婿として受け入れるかどうか聞かれます。キリストを信じて、主人にすると決心したとたん、聖霊がその人に入り、その人は聖霊によってキリストの御体なる教会につながれます。これが御霊によるバプテスマです。その人はキリストと婚約したのです。
キリスト教神学では、予定説の問題がよく議論に取り上げられます。救われる者は最初から予定されているという教理です。ある人は選ばれ、ある人は選ばれないのは不公平ではないかというのです。この選びという教理は、結婚に似ていると思います。
もちろん、神はすべての人を愛しているのですが、結婚には両性の合意が必要です。誰でも愛する人を選ぶ権利と自由があります。神が人を愛して選んでいても、人が神を選んで愛さなければ、結婚はできません。人が神のプロポーズを蹴る時、その人は神を選ばず、悪魔を選ぶことになります。つまり、神がその人を選んでいなかったのではなく、その人が神を選ばなかったということです。しかし、神は最初から、どの人が神を選び、どの人が悪魔を選ぶかご存じなのです。
キリストはイスカリオテのユダを心から愛していました。ユダがキリストの愛を選んでさえいたなら、彼は救われていたのです。しかし、ユダはキリストよりも悪魔を愛しました。彼はキリストの申し出を断ったのです。そして彼は悪魔と結ばれたのです。
●婚約式
ユダヤの婚約には結婚と同じ重みがあります。婚約期間には聖さと忠実さが求められます。この期間に不品行があれば、離婚と同様に不名誉なこととされました。
婚約のための誓約書(ケトゥバー)が作られ、その際、花嫁の贖いの代価が定められます。
婚約式では、花婿は花嫁の父に対して花嫁の贖い金を支払います。ふたりは誓約の了承の杯を飲み、誓約が交わされます。花婿は花嫁に、結婚の約束の証として贈り物をします。誓約書は花嫁が保管します。そして、花婿は「完了した」と言って、婚約完了の宣言をします。
十字架の上でキリストが語られた最後の言葉は、この「完了した」という言葉でした。それはキリストが花嫁である教会の罪の贖いの代価を支払い、婚約が完了したことの宣言だったのです。
クリスチャンは、教会で聖餐式でパンと葡萄酒を食しますが、それはキリストが私たちを贖うために、ご自身を差し出されて死なれた尊い贖いの犠牲を覚え、私たちがキリストと婚約していることを思い起こすためのものでもあります。
●婚約期間
婚約式が終わると、花婿はすぐに父の家に戻ります。そして父の家の隣に新居を建て始めます。花婿はその日から結婚の日が来るまで、花嫁には一度も会いません。新居が完成した時に結婚することができるのです。新居完成かいつかは分からないので、結婚の日も未定です。その日が一年後になるのか二年後になるのか、まったく分からないまま、花嫁は花婿を信じて待つのです。
待ち望む花嫁は、水で身を清め、婚約したことを分かるようベールをかぶります。そして、愛する人に再び会って結婚する日を夢見ながら、自分を聖く守り、結婚の準備を整えて日々を過ごします。花嫁は花婿の結婚の呼び出しを毎日待ちながら過ごすのです。花婿を待つ間、不安な花嫁に与えられているのは、婚約式で与えられた愛の証の贈り物と結婚の約束の誓約書です。
あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。
あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネの福音書14章1~3節)
キリストは花嫁なる教会のために、その住まいを備えるために天に戻られました。そして、住まいが完成した時、教会を迎えに戻って来るという約束を残されたのです。これはまさにユダヤの婚約と同じ形です。
花嫁が水で身を清めることは、水のバプテスマ(洗礼)と同じです。この待ち望む花嫁の姿は、キリストの花嫁となる教会の姿そのものです。婚約した乙女は、身も魂もきよくなろうと聖潔に至る道を求める聖徒のひな形です。本当にキリストを愛しているなら、愛する人のために、神のみこころを行おうとするはずです。愛する主人を喜ばそうとするはずです。それが真の愛の応答です。
婚約の誓約書は、教会に対する「神の約束」のひな形です。罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのち、天の御国、キリストとの結婚という約束です。キリストとの結婚の日、その約束は果たされます。
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネの福音書14章16~18節)
花婿から花嫁へ送られた贈り物とは、キリストが、ご自分が去った後に、私たちを孤児にしないようにと教会に送られた、助け主なる聖霊と、聖霊の賜物のひな形です。
●花嫁のお迎えの御輿(みこし)
新居が完成すると、花婿はすぐに花嫁の家に使いを送ります。使いはラッパを吹きながら花嫁の家を突然訪問します。そして用意して来た輿(こし)に花嫁を携え挙げ(引き上げ)、花婿の待つ新居に乗せて行きます。まるで御輿(みこし)に乗せられて月に帰るかぐや姫のようです。父の家では花婿が花嫁を出迎えます。
このラッパを伴う使いの出迎えが携挙のひな形です。ある日、キリストは天の家が完成すると、花嫁との結婚式のために行動されます。まず、死んでいた聖徒たちの魂を、御霊のからだによみがえらせます。それから、ラッパを合図に御使いらを地上に遣わします。花嫁なる地上の教会(聖徒)は、一瞬にして携え挙げられ、空中まで引き上げられます。彼らは一瞬で御霊のからだに変えられます。
兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。
ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(Ⅰコリント 15章50~52節)
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。(ローマ人への手紙6章)
携挙された教会が見るのは、多くの聖徒達と、花嫁を迎えようと空中まで迎えに来られたキリストです。こうしてキリストの花嫁は全員集合し、キリストの花嫁、「ひとりの人」として完成するのです。
結婚の日が、いつになるのか分からないように、キリストの携挙もいつになるかは分かりません。
兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。(Ⅰテサロニケ4章)
この携挙(あるいは空中再臨)は、終末にキリストがオリーブ山に降りて来る地上再臨とは別の出来事です。地上再臨では、その正確な日付を特定できる事件が地上で起こるので、その日を前もって予測できますが、携挙の日は前もって知ることができません。(再臨については「時のしるし4 様々な前兆と大患難時代」をご覧ください)
また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。(黙示録12章4〜6節)
この女と男の子の解釈には様々なものがありますが、この女が象徴するものはイスラエルであるという解釈は、ほぼ一致しています。しかし、女が産む男の子については解釈が分かれます。男の子はキリストご自身であるとする解釈が多いようですが、教会だという解釈もあります。花嫁は女なのだから、女の子でないとおかしいと言う方もおられますが、教会はキリストにとっては花嫁であっても、ひとりの牧者でもあり、「彼」とも呼ばれています。天に引き上げられた男の子は教会の可能性もあります。
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。(ヨハネ10章16節)
キリストは「この囲い(イスラエル)」に属さない「ほかの羊(異邦人教会)」を持っています。この教会はひとつの群れであると同時に、ひとりの牧者となるのです。また、キリストはテアテラにある教会への手紙の中で、その牧者について書いています。
勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。(黙示録 2章26〜27節)
ここで信仰者なる教会は、諸国の民を支配する権威を与えられると約束されています。キリストご自身が、「彼」は支配の権威を受けると語られているのです。ここの「彼」とは、キリストがご自分のことを指して言っているのではありません。教会のことです。
ともあれ、携挙が起こってから、大患難時代が始まると考えるのが、つじつまが合います。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。(Ⅱテサロニケ2章3~7節)
現在、世界中のキリスト教会では背教が隆盛を極め、聖書本来の伝統的な教理は、時代遅れであると否定されています。これも「時のしるし」のひとつです。もしもあなたがキリスト教会に行ったなら、ほとんどの教会で、聖書本来の教理がしっかり語られていないことを実感することでしょう。
「主の日」とは神の怒りの下る7年間の大患難時代のことです。それは反キリストの登場によって始まります。その3年半目に、反キリストはエルサレム神殿で自らを神と宣言します。すると反キリストの残りの活動期間は3年半です。もし、携挙が患難時代の真ん中や終わりであれば、その日が盗人のように来ることは不可能でしょう。反キリストが現れているのに、前半の三年半の間は、その正体が分からないという状態でなければ、無理ということになります。やはり大患難の前に携挙があるように思えます。
この「引き止める者」についても、解釈がいろいろとあります。一般に「聖霊」であるという解釈と、「教会」であるという解釈があります。しかし、もし引き止める者が「聖霊」であるなら、世界中から聖霊が取り去られてしまう訳ですから、それ以降、キリストを信じる者は誰一人いなくなってしまうことになります。信仰は聖霊のみわざだからです。しかし、キリストの地上再臨の時には、信仰者たちが世界中から集められるのですから、大患難時代にも地上にはキリストを信じる信仰者が起こされるはずです。ということは、この引き止める者は、聖霊ではないと思います。
引き止める者が「教会」であるなら、つじつまが合います。教会の地の塩としての役割は急速に失われつつありますが、最後の聖徒たちが携挙で取り去られると、この世の腐敗を止められなくなります。反キリストにとっては、もはや邪魔者がいないので、絶好のチャンスとなります。
こうして反キリストは、引き止めるものが無くなった為に、活動を開始します。福音宣教の役目は、教会から、エルサレムに現れるふたりの証人にバトンタッチされることでしょう。
教会のさばき「携挙」
キリストはノアの日のようなことが再び起こると警告されました。
人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。ロトの妻を思い出しなさい。自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝台で男がふたり寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」
弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」(ルカの福音書17章26〜37節)
聖書には、携挙のひな形がおもに三つあります。ひとつ目はノアの大洪水、二つ目はソドムとゴモラ、三つ目はユダヤ戦争時のエルサレムです。
ノアの大洪水の時代、ノアが箱船に入って扉を閉めたとたん、神のさばきが行われました。
ソドムとゴモラの町は、ロトが出て行ったとたん、神のさばきが行われました。
二千年前のエルサレムの都も、キリストの預言通りにクリスチャンたちが脱出したとたん、ローマ軍に完全包囲され、神のさばきが下りました。
世の終わりにも同じような事が起こるというのです。
現在、世界中のキリスト教会は衰退しています。地の塩であるべき教会は、今や世界の腐敗を止める影響力を失っています。塩が塩気を失えば役に立たないので捨てられるだけ(マタイの福音書13節)、とキリストは語られましたが、文字通りクリスチャンの数は年々減少し、教理は曲げられ、塩気は失われています。完全に教会がその塩気を失った時、神はわずかに残った民を引き上げられます。
いつか世界中で真のクリスチャンが携挙されても、腐ったこの世は大して驚きも、悔い改めもしないでしょう。
キリストはその時のことを、結婚のたとえでお話になりました。
そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイの福音書25章1~13節)
携挙では、真の信仰者たちが取り去られ、不忠実な信仰者たちが地上に残されます。教会に残された者たちは、それに気づいて、大患難を思って、泣いて悔しがるのですが、後悔してもあとの祭りになるというのです。それは警告に耳を傾けず、眠っていたクリスチャンに対する神のさばきです。
なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(Ⅰペテロ 4章17節)
「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。
「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。 家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。』
神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。(ルカの福音書13章)
残された者たちは、たまたま預言を知らなかっただけとか、聖書をよく分かっていなかっただけ、というような人たちではありません。彼らは、聖霊の声に従わずに、ずっと「不正」を続けていた者たちだというのです。神は、彼らを「知らない人」と呼びます。
神の恵みを受けながら、神のみこころを行わず、かえって不正を続けている者は、実は神を知らない者だというのです。彼らは神の家にいただけで、真の聖徒ではなかったのです。神はその様な者たちを、地上に残すことでさばかれるといいます。
彼らにセカンドチャンスはあるのでしょうか? 悔い改める者が出てくるのでしょうか? それは分かりません。
地上では恐ろしい時代が始まりますが、天では過去に亡くなったクリスチャンと携挙されたクリスチャンが大集合しています。聖徒は永遠の御霊のからだに変えられ、待ち望んでいた花婿キリストと出会うのです。
●結婚の完成
ユダヤの結婚では、花婿に導かれて新居に入った花嫁は、天蓋の下に導かれます。花婿と花嫁はふたりだけで部屋に入ります。花婿は花嫁のベールを取り除き、顔と顔を合わせて対面します。そこで初夜を迎え、花婿と花嫁はひとつのからだとなり、結婚が完成します。婚姻の祝いの宴は七日間続きます。
結婚の日に、花婿が花嫁のベールを取るように、教会は神のキリストの姿を完全に見るでしょう。そして、今は分からないことが完全に理解できるようになるのです。
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(第一コリント13章12節)
悪魔が天から地上に投げ落とされる時(黙示録12章7~12節)、天では花婿キリストと、キリストの血によって救われた花嫁なる教会との結婚が始まります。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。
(黙示録 19章7〜8節)
7年間の大患難時代が終わる時、結婚したキリストは世界をさばくために地上に再臨します。花嫁なる教会も天の軍勢としてキリストに付き従って行きます。
●神の大宴会
婚姻の祝いの宴は七日間続きます。ユダヤの結婚では、婚姻の宴の第七日目に、町中の人々を招いて大宴会を行います。今で言う結婚披露宴のようなものです。
宴会の七日という期間は七年という大患難時代のひな形です。結婚式の締めくくりに、キリストは患難時代の終わりに、花嫁を伴って、地上に再臨します。
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。(黙示録19章11〜15節)
反キリストは世界中の軍隊をエルサレムに集め、再臨したキリストと戦います。キリストは勝利します。この時イスラエルは回復し、地上に神の国が訪れます。キリストは世界中の人々を集めてさばきます。
そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコの福音書13章26~27節)
教会が取り去られた後も、地上にはふたりの証人によって福音が語られ、信仰者が与えられます。彼らはひどい患難の中でも、聖書の預言を調べ、神の再臨の日を指折り数えて待ち望むのです。その信仰者たちのために、神は患難時代の日数をあらかじめ決めているのです。
さばきが終わると、キリストの結婚披露の大宴会が行われます。
万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。
その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」
(イザヤ25章6~9節)
神の約束
結婚の日を指折り数えて待ち望む花嫁は、どんなにその日を楽しみにしていることでしょう。真の聖徒は、キリストとの結婚の日を待ち望みながら、この世の旅路を過ごすのです。そのベールの向こう側には天の御国が待っています。 その日、天国の門は開かれ、永遠の神の国が始まり、教会にはもはや死はありません。年をとることも、病も、悲しみも、暴虐もないのです。そして、ついに新しい天と地が与えられ、教会はキリストと共に永遠を過ごします。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
すると、御座に着いておられる方が言われた。
「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。
「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
(ヨハネの黙示録15章12-16節)
マラナ・タ!
かつて、初代教会のクリスチャンたちは、お互いに「マラナ・タ」と言って、励まし合っていました。その意味とは、「主よ。来て下さい」です。なぜその様な言葉を交わしていたのでしょう。彼らは、キリストが教会を迎えに来るのを切に待ち望んでいたのです。なぜなら、キリストが来なければ、この世は改まらないからです。愛するキリストに会うことは、クリスチャンにとって最大の幸せなのです。そこで質問です。私たちは待ち望む花嫁でしょうか? それとも、眠っている花嫁でしょうか?
それからイエスは、人々にたとえを話された。
「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。
まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
(ルカの福音書21章29〜36節)
いちじくの木はイスラエルの象徴です。この世の「時のしるし」を見る時、神の国が近いと分かります。この産みの苦しみの時代が過ぎない限り、神の国は来ないといいます。
御霊も花嫁も言う。「来てください。」
これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。
渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。
(黙示録22章17節)