時のしるし5【イエスキリストの十字架】

 

 イエス・キリストは世界で一番の有名人ではないでしょうか。信じている信じていないにかかわらず、キリストの名を知らない人はほとんどいないでしょう。しかし、イエスが何をしたのかを知っている人はほとんどいないのです。

 彼は、今から約二千年前にエルサレムで十字架につけられました。多くの人は、キリストが善良であるがゆえに、武力に反対し、無抵抗をつらぬいて殺された悲劇の人だと思っています。しかし、このキリストの十字架こそ、実は神の「時のしるし」だったのです。その隠された秘密をお知らせします。

 

キリスト」の意味とは

 

 「イエス・キリスト」という名の真の意味を知る人は少ないでしょう。多くの人は「イエス」が名前で、「キリスト」が姓だと思っています。しかし、キリストとは名字ではありません。それはある称号のことなのです。

 「キリスト」とは、もともとはヘブライ語の「メシア(マシーアハ)」のギリシャ語訳です。メシアとは「イスラエルの救世主、王」を表す称号です。つまり、「キリスト(ギリシャ語)」と「メシア(ヘブライ語)」は同じ意味です。

 「キリスト」の称号の由来は、旧約聖書にあります。第一サムエル記16章には、預言者サムエルが、神に命じられ、エッサイの息子ダビデに油を注ぎ、王として任命する場面があります。

 

 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。

 主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。(サムエル記第一 16章)

 

 神ご自身が王を立てる時、神はその人物に油を注ぐよう指示しました。神から油注がれ、王として任命された者が「キリスト(メシア・油注がれた者)」であり、イスラエルを救う「救世主」となりました。キリストには、油が注がれたように神が霊を注がれ、大きな力が与えられたのです。

 頭に油を注ぐなど、日本人には気持ち悪い気がしますが、イスラエルは乾燥地帯です。人々は皮膚の乾燥を防ぐために肌にオリーブ油を塗っていたのです。日本では異様ですが、イスラエルではごく普通のことでした。

 つまり、「キリスト(メシア)」とは、「神に油(霊)を注がれた王」を意味し、「神の遣わしたイスラエルの救世主」という称号なのです。

 ではなぜ、イエスが「キリスト」になったのでしょう?

 

「イエス」の意味とは

 

 「イエス」という名は、旧約聖書に登場する「ヨシュア」のギリシャ語訳です。新約聖書はギリシャ語で書かれたため、イエスというギリシャ語名で呼ばれていますが、ヘブライ名は「ヨシュア」です。「ヨシュア」とはヘブライ語で「神は救い」という意味です。ちなみに現在のユダヤ人クリスチャンは、イエスのことを「ヨシュア」と呼んでいます。

 そもそも「イエス(ヨシュア)」という名は、イエスの母マリアがつけたのではなく、御使いガブリエルがつけるようにと命じたものです(ルカの福音書126節)。

 なぜその名をつけたのでしょうか? それは旧約聖書の「ヨシュア」という人物が、キリストのひな形だったからです。

 モーセ率いるイスラエルの民が、エジプトを脱出して、荒野を40年さまよった後、ついに約束の地カナンへ入る時が来ました。モーセはヌンの子「ヨシュア」を指導者に任命し(出エジプト記3123節)、ヨシュアは約束の地に民を導き入れる先導者となりました。その物語が旧約聖書の「ヨシュア記」です。約束の地カナンに民を導いた者「ヨシュア」は、神の国に人々を導くイエス(ヨシュア)・キリストのひな形だったのです。

 

イエスが「キリスト(メシア=救世主)」である証拠

 

 もしイエスが、ただの善良な人間で、気高い理想を説いたために迫害され、無抵抗をつらぬいたゆえに十字架につけられたのだとしたら、ある意味、イエスはただの悲劇の人です。そんな人を神、救世主としてあがめる意味はありません。

 

 では、なぜクリスチャンは、イエスをキリストとして認め、神として崇めるのでしょうか? イエスがキリストだとする根拠はどこにあるのでしょう? 

 それはイエスが数々の「キリスト預言」を成就したことにあるのです。「キリスト預言」とは、旧約聖書の預言者たちが、来たるべきキリストの行う行動を預言して残したものです。イエスはそのキリスト預言を成就したので、キリストと認められたのです。

  

キリストの生誕方法と生誕地の預言

 

 イスラエル民族には、世代を超えて沢山の預言者が現れました。彼らはやがて来る「神の救世主キリスト」についての預言を数多く残しました。その驚くべき詳細な預言について調べてみましょう。

 

 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。

 見よ。処女がみごもっている。

 そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ書7章14節)

 

 預言者イザヤはキリスト生誕の700年前に、処女から生まれる男の子のことを預言していました。イエスはナザレに住む処女マリアから生まれました。処女から人が生まれるわけがないと人は思います。しかし、預言によると、神のキリストは父なる神の聖霊によってみごもる人なのです。

 その方は「インマヌエル」と呼ばれます。インマヌエルとは、ヘブライ語で、「神は我と共にあり【イム(with)アヌ(us)エル(God)】」という意味です。

 キリストの昇天後、キリストは天から聖霊を地に送られました。その日以来、キリストを信じたクリスチャンには、神の聖霊が送られるようになったのです。クリスチャンは、この世で「神と共に生きる(インマヌエル)」ようになったのです。これがインマヌエルの神です。

 

  また、キリストの生誕地も前もって預言されています。

 

 ベツレヘム・エフラテよ。

 あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。(ミカ書5章2節)

 

 預言者ミカは、キリスト生誕の八百年前にこの預言をしました。ですから、キリストの生誕地は、絶対にベツレヘムでなければなりません。

 マリアはもともとナザレという町に住んでいました。マリアが身ごもった後、ローマ皇帝アウグストの住民登録命令が出て、ダビデの家系の者は皆、ベツレヘムへ登録に行かなければならなくなったのです。そこで、婚約者ヨセフと身重のマリアは、共にダビデの家系だったので、仕方なくベツレヘムへ行くことになりました。彼らはこの預言を成就しようと、無理矢理ベツレヘムに行った訳ではありません。ローマ皇帝の勅令によって、この預言の成就が起こったのです。マリアはベツレヘムの寂しい動物小屋でイエスを産みました。クリスマスはこのキリストの生誕を祝って行われています。

 

 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これはクレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼はダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。

(ルカの福音書2章)

 

ダビデの子孫

 

 神のキリストは、ダビデ王の子孫から出ると預言されていました。イザヤの預言を見てみましょう。

 

 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。

 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。

 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。

(イザヤ書11章1〜4節)

 

 エッサイの息子ダビデは、預言者サムエルによって油注がれた者「キリスト」となり、イスラエルの王となって民を救いました。実は預言者イザヤがこの預言を書いた頃、ダビデ王はすでに亡くなっており、過去の人物でした。ですから、この預言はダビデ王自身のことではありえません。

 預言者イザヤは、エッサイの根=ダビデ王の子孫から「キリスト」が出ると預言したのです。イエスの母マリアも、夫となったヨセフも、共にダビデ王の子孫でした。イエスはダビデ王の家系に生まれたのです。これもキリスト預言の成就のひとつです。

 また、このエッサイの「根株」というヘブライ語は「ナザレ」の語源です。ナザレはマリアの住んでいた町で、イエスが育った町です。イエスは「ナザレのイエス」と人々から呼ばれました。

 

原始福音

 

 神である主は蛇に仰せられた。

 「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

(旧約聖書 創世記31415節)

 

 では、そもそも、なぜキリスト(救世主)の到来が必要なのでしょうか? なぜ世界にイエス・キリストが必要だというのでしょうか?

 かつて人間はエデンの園で堕落する前に、神と共にいました。しかし、悪魔の言葉を信じて、人が罪を犯してしまった時、罪人となった人間は神のもとを去らねばならなくなりました。

 神は蛇(悪魔)にこう預言しました。「女の子孫である『彼』がおまえの頭を踏み砕く」と。その方は、女の子孫から出て、悪魔を滅ぼす人物です。それが救世主キリストです。

 

 女の子孫とは、後の神の民イスラエルを表し、蛇の子孫とは、蛇(悪魔、この世の神)を信じる者たちを表します。この世はイスラエル民族を憎んでおり、いつの時代も敵意を持って迫害します。この蛇(悪魔)が滅ぼされない限り、この世はずっと暗闇なのです。

 

 女の子孫に信仰者ノアがいました。しかし、この世が悪に染まり、ノア以外に信仰者がいなくなった時、神はノアの家族を救い出し、この世をさばきました。そのノアの子孫にアブラハムがいます。神はアブラハムを選び、彼と契約を結びます。アブラハムの子孫からイスラエル民族が始まりました。神はイスラエル民族を召し出し、契約を結びました。神はイスラエル民族を神の民とし、その子孫から人類の救い主キリストを輩出させると数々の預言者たちに語らせたのです。

 

エルサレム入城

 

 人が思う救世主のイメージは、昨今のマンガや映画の主人公のような、圧倒的な力で悪を打ち倒すヒーローでしょう。もちろん、そのような考えは現代だけでなく、二千年前のイスラエルでも同様でした。

 ローマ帝国の圧政に苦しんでいたイスラエルの民は、馬に乗ってさっそうと登場するヒーローのようなキリストが、圧倒的な神の力でローマを滅ぼすだろうと期待していたのです。確かにゼカリヤ書などには、敵を圧倒的な力で殲滅する、雄々しいキリストの姿があります。しかし、民衆の期待とは裏腹に、やって来たのは、かっこいい馬ではなく、子ろばに乗ってきたイエスでした。

 しかし、「子ろば」に乗ってキリストがエルサレムに入城することは、預言者ゼカリヤによって、前もって預言されていたのです。

 

 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

 見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

 この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。

 それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ書9章9節)

 

 この預言を実際に成就した人物は、歴史上にただひとり、ナザレのイエスだけです。イエスはこの預言通りに、子ろばに乗ってエルサレムに入城しました。その時の様子が福音書に描かれています。

 

 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。

 「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。

「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。

柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。

 イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。(マタイによる福音書7章)

 

 余談ですが、ろばの背中を見たことがあるでしょうか? そこには十字の縞があるのです。イエスはその十字架を見ながら、エルサレムに入城したことでしょう。

 律法では、ろばの子は子羊で贖わねばなりませんでした。そこにはひな形が隠されています。ろばは人を表します。ろばは首が固く頑固な動物なのだそうです。人間も同じです。人間は神の小羊キリストによって贖われなければならないという形がここにあるのです。

 

 ただし、ろばの初子はみな、羊で贖わなければならない。もし贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの子どもたちのうち、男の初子はみな、贖わなければならない。(出エジプト13章13節)

 

 人々は熱狂的にイエスを迎えました。イエスがローマに対してついに武力を持って立ち上がると思ったからです。しかし、イエスが自分たちの期待していたようなキリストではなかったと分かると、すぐさまイエスを拒絶したのです。イエスは人が望むキリスト像とは全く違っていましたい。人々はその隠された意味を知りませんでした。しかし、それこそが神の計画だったのです。

 

過越(すぎこ)しの小羊

 

 イエスが十字架につけられたのは、ユダヤの例祭のひとつ、過越しの祭りの時期でした。その祭りの意味を知るには、イスラエル民族の歴史を振り返らなければなりません。そこには大切なひな形があるのです。(詳しくは、時のしるし2イスラエル復興の歴史をご覧下さい)

 かつてイスラエルの民がエジプトで苦しんでいた時、神はモーセを遣わして、イスラエルをエジプトから脱出させました。その出来事は旧約聖書の「出エジプト記」に詳しく書かれています。

 エジプトに対する神のさばきの夜、モーセはイスラエルの民に、子羊をほふって、その血を家の門柱に塗るように命じます。その晩、神のさばきがエジプトに下ったのです。

 神は、門柱に子羊の血が塗られているイスラエルの家のさばきを過ぎ越しましたが、子羊の血の塗っていないエジプトの家には、さばきを下して初子を殺しました。子羊の身代わりの血によってイスラエルの民は救われたのです。この子羊こそは、実はイエス・キリストのひな形でした。

 もし人が罪を犯したなら、さばかれて罰を受けるか、賠償をするでしょう。罪には犠牲が要求されるものです。人は罪を犯してしまう存在です。しかし自力で罪を消すことはできません。善行を行っても、それは真の罪滅ぼしにはなりません。人は罪の故に滅ぶ運命です。そんな人をあわれみ、神は人を愛するがゆえに、人の罪を贖って、滅びの道から救出する計画を立てました。神は人の罪の身代わりに、ご自分の子キリストを身代わりにしたのです。人の罪に対する刑罰を、キリストに下し、人々を無罪にするためです。つまり、キリストがこの世に生まれたのは、人々の罪の身代わりに死んで、人々を罪の刑罰から救うためでした。

 

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネの福音書3章16節)

 

 

イザヤ書53章

 

 預言者イザヤは、キリスト生誕の700年前の預言者でした。イザヤ書の53章には、不思議な預言が書かれています。これは別名「苦難のしもべ」の章とも呼ばれるものです。

 

 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。

 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。

 人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

 だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。

 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。

 しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。

 ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。

 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。

 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。

 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。

 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。

 彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。

 もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。

 彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。

 彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

 

 長い間、この預言の意味は不明でした。ここに書かれている「彼」が何者なのか、いったい何をしているのか、イエス・キリストが来るまで、誰にも分からなかったのです。

 

 ここに描かれている神のしもべは、全く罪がなかったにもかかわらず、不当な裁判を受け、黙って厳しい刑罰を受けています。それだけでなく、そのしもべは、実は人の罪を身代わりに背負って苦しんでいるのに、誰一人、それを悟ることができないというのです。しかし、そのしもべが「自分のいのちを罪過のためのいけにえにするなら」、多くの人を義とするというのです。

 

 イエスは過越しの祭りの晩、律法学者たちから訴えられ、ローマの裁判にかけられますが、何一つ罪は見つかりませんでした。民衆はローマを倒さない弱いキリストに失望し、イエスを十字架につけるよう要求しました。暴動を恐れたローマ総督ピラトは、イエスを十字架につけることを了承してしまいます。その場にいる 誰一人、イエスがこのイザヤの53章を成就するために来たことを知りませんでした。イエスが彼らの罪を贖うために、ご自身を捧げようとしていることを、誰一人悟れなかったのです。

 

詩編22篇

 

 キリストが十字架につけられた時に起こったことは、福音書に生々しく書かれています。

 

 それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。

 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

 イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。

 また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。

 「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」

 また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。

 「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」

 また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。

それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。(マルコによる福音書15章)

 

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」

 この十字架の上のイエスの言葉を聞くと、イエスは神に見捨てられたと知って、絶望して死んでしまったかのように思えるでしょう。しかし、実はこの言葉はイエス自身の言葉ではないのです。この言葉は旧約聖書の詩編の22篇一節です。それはユダヤ人なら誰もが知っているダビデ王の書いた聖句でした。ダビデはキリスト生誕の千年前に、詩篇の中で、このような言葉を書きました。

 

 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。

 遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。

 夜も、私は黙っていられません。

 けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。

 彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

 彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。

 私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

 「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」

 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。

 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。

 母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

 どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。

 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。

 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。

 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。

 私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。

 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。

 あなたは私を死のちりの上に置かれます。

 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

 私は、私の骨を、みな数えることができます。

 彼らは私をながめ、私を見ています。

 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。(詩篇22篇)

 

 これを書いたダビデ王本人は、老衰で亡くなりました(列王記第一2章参照)。ですから、この内容はダビデが自分自身のことを書いたのではありません。ダビデは自分の子孫から出るキリストについて預言をしていたのです。

 イエス・キリストは、この冒頭の一節を語ることによって、この詩篇の預言が、自分に成就していることを公に告げていたのです。

 実際にこの預言に書かれている通りの事が起こりました。ダビデ王の時代にはイスラエルに十字架刑はありませんでした。この恐ろしい十字架刑を発明したのはローマ帝国です。この刑の残酷な点は、手足を十字架に釘打ちにすることで、極度の激痛の中で死ななければならないことです。体の重みで骨が脱臼して外れ、呼吸をするために体を持ち上げないと窒息するため、ひどい激痛が走るのです。その上、炎天下にさらされ、飢えと渇きが同時にやって来ます。まるで人を虫けらのように殺す刑罰なのです。

 キリストの十字架の下では、刑を執行したローマ兵が、実際にイエスの着物を「くじびき」にしていました。民衆はあざけりの言葉を投げかけました。もちろん、人々の目には、イエスの姿は敗北者にしか映らなかったでしょう。あざける人々は、自分が何をしているのか分かっていませんでした。彼らは、自分たちの真の王であるキリストを殺し、自分たちの罪をただ増し加えていただけだったのです。

 

 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。

 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。(ルカの福音書233238節)

 

 キリストには十字架から降りる力もありました。しかし、もし自分が身を捧げなければ、人間は永遠に罪から救われないのです。キリストは人を愛するがゆえに、屈辱と苦痛に耐えました。 そして、最後に「完了した」と叫んで息を引き取ったのです。何を完了したのでしょうか? キリストは律法を全うし、人類の贖罪を完了したのです。その後、キリストの体は十字架から下ろされ、墓に納められました。弟子たちは四散しました。

 

キリストの復活

 

 キリストは弟子たちに、自分は十字架につけられて三日目に復活すると預言していました。しかし、弟子たちでさえ、その言葉を信じられなかったのです。キリストが実際に十字架につけられた時も、その真の意味を理解していた人はいませんでした。

 

 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 それから、イエスは弟子たちに言われた。

 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイによる福音書16章)

 

 このような預言をされていたにもかかわらず、過越しの晩、ローマ兵がやって来ると、弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出したのです。しかし、キリストは預言通りに、十字架につき、三日目に復活したのです。

 

 なぜキリストは復活したのでしょう?

 それは、キリストがモーセの律法をすべてまっとうしたからです。律法では、一度も罪を犯さずに律法を守り通した人間だけが、永遠のいのちを得られるのです。しかし、誰ひとり律法を守れる人間はいません。神の御子、イエス・キリスト以外はーー。

 

 キリストは罪の贖いのために死なれましたが、悪魔に勝利し、律法を完全に守り通したので、永遠のいのちを得たのです。 

 

 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。すると、御使いは女たちに言った。

 「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。(マタイの福音書2818節)

 

 キリストは実際に死んで、葬られ、「よみ」に下りました。そして復活したのです。キリストがそこで何をしていたのかは、「最後の審判について」をお読みください。

 

キリストの昇天

 

 キリストは復活後、四十日間、弟子たちに現れました。そして、エルサレムの東にある「オリーブ山」から天に戻られました。使徒の働き1章にはその時のことが書かれています。

 

 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。

 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。

 「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。(使途の働き1章)

 

 キリストは復活し、オリーブ山から天に昇っていきました。通常ではとうてい信じられないことです。しかし、聖書の預言は、歴史を通して次々と成就して行きます。

 

 キリストの約束通り、五旬節の祭り(ペンテコステ)に、弟子たちにキリストの聖霊が注がれました。おくびょうだった弟子たちは、その日から変貌し、大胆に福音を伝え、世界中に出て行きました。

 二千年前に、エルサレムから始まった、このキリストの福音宣教の流れは、小アジア(現在のトルコ)からローマ帝国を経て、ヨーロッパ、アメリカ大陸、アジア大陸と西回りで進み、今や世界を一周して、エルサレムに戻って来ています。キリストの福音は、世界に多くの良い影響を与えて来ました。それは歴史的事実です。

 聖書の預言は次々と成就しています。近年、残念ながら西洋諸国がキリスト教から離れて行くのとは対照的に、多くのユダヤ人がクリスチャンになっています。こんな事は、久しくなかったことです。福音は二千年かけて、世界を一周し、ユダヤ人の所へ戻ってきたのです。彼らはキリストを十字架につけ、そのために世界中に散らされましたが、滅ぶことなくイスラエルに戻ってきました。それは聖書の預言の通りなのです。これも時のしるしのひとつです。

 もしこのように未来を預言できる存在がいるのなら、キリストの復活も昇天も簡単なのではないでしょうか。

 

 さて、キリストは「オリーブ山」から天に昇って行きましたが、このオリーブ山にはもの凄い預言があるのです。オリーブ山は非常に重要な場所です。旧約聖書のゼカリヤ書には、キリストがオリーブ山に降りて来る預言があるのです。

 

  わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。

 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたは、わたしの山々の谷に逃げよう。ユダの王ウジヤの時、地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げよう。私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主とともに来る。(ゼカリヤ14章2〜4節) 

 

 この預言はイエスの生まれる500年以上前に書かれたものです。キリストが、ユダヤ人を守るためにオリーブ山に降りて来るというのです。この時のキリストはもの凄い恐ろしい力を持っています。

 

 主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。(ゼカリヤ14章12節)

 

 イエスの時代のユダヤ人たちはみな、この預言を知っていました。ですから、このような恐ろしい力を持ってローマ軍を滅ぼすキリストを夢見ていたのです。しかし、このキリスト預言はその時の事ではなかったのです。キリストはその前に、他のキリスト預言を成就しなければなりませんでした。それは、悪魔の支配から人々を解放する神の小羊としての使命でした。キリストは十字架につけられ、贖罪を完了し、死に勝利しました。そして、復活して天に昇り、今はそこにとどまっています。

 

 

 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。(使徒の働き3章18〜21節)

 

 しかし、いつか時が来ると、キリストは残りのキリスト預言を成就するために、再び地上に帰って来るというのです。その再臨の場所はすでにゼカリヤによって預言されていた「オリーブ山」です。

 しかし、帰ってきたキリストは二千年前とは違う所があります。キリストは、この世をさばくために帰って来るのです。恐ろしい力と支配を持ってやって来るというのです。聖書の預言は確実に成就してきました。この預言もいつか成就することでしょう。

 

 他にもキリストに関する預言は沢山あるのですが割愛しました。キリストがイスカリオテのユダに銀貨30枚で売られたことも、弟子たちがキリストを見捨てて逃げることも、キリストがおもにガリラヤ地方に伝道することも、盲人やろうあ者を癒すという奇跡を行うことも、すべて前もって預言されていました。

 

 しかし、一番大切なことは、神がキリストを遣わしたのは、キリストを十字架につけ、人の罪を清めることによって、人々を義人にし、神の元へ戻す道を創ったということなのです。これをなさせたのは神の愛のゆえです。なぜなら、神の国には義人しか入れないからです。罪がひとつでもあれば、人は義になれないからです。人は誰でも完全な義人にはなれないからです。ですから、キリストを信じる人は、神の目には義人とみなされます。神のキリストの血によってそれが可能となったのです。神はその信仰によって、さばきの日には、その人を義と宣言するのです。どんなにあなたが罪人でも、神はあなたの信仰によってあなたを義とし、神の子にしてくださるのです。それが福音(良き知らせ)なのです。

 

 

 

ユダヤの例祭に隠された神の計画の預言

 

 さて、ユダヤ人はイエスを拒否して以来、悲しいかな、今でもイエスを拒否しています。しかし、彼らの守って来たユダヤの伝統の中に、イエス・キリストは隠されているのです。それを見てみましょう。

 

 モーセに率いられて出エジプトを果たしたイスラエル民族は、シナイ山で神から律法を授与され、神と契約を結びました。その際に定められたユダヤの例祭には、神のご計画のひな形が隠されています。

 モーセは6つの例祭を定めました。その祭りの中に、キリストの贖罪、聖霊降臨、携挙、大患難時代、千年王国が、ひな形として預言されていたのです。

 

過越しの祭り(ペサハ)=罪の贖い

 

 エジプトのさばきの夜に、子羊の血を塗っていたイスラエルの家だけが、神のさばきを過ぎ越されたことを記念し、過越しの祭りを行うよう、モーセは命じました。これは春の祭りで、当初は一年の最初の月でした。

 この過越しの祭りは、神の小羊なるキリストの十字架のひな形です。神は、キリストを十字架につけて、その血によって人類の贖罪を行いました。そして、人々に、キリストを信じて救われるようにと公示しました。

 人は死後に神にさばかれ、その罪の贖いとして永遠の刑罰を受けます。しかし、キリストを信じた者にはキリストの血が適用され、その罪赦され、さばきが過ぎ越され、無罪となって神の国に入ることができるのです。これが神のわざです。これがキリストの福音です。

 

初穂の祭り=復活

 

 過越の祭りから最初の安息日(土曜日)の次の日、つまり日曜日に初穂の祭りが行われます。十字架で死なれたキリストは、三日目の初穂の祭りの日に、人々の初穂として復活したのです。

 

 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(第一コリント15章20~22節)

 

 キリスト教会はこの日を祝して、復活祭を行います。「イースター」という呼び名は、実はキリスト教とは全く関係ありません。

 

七週の祭り(シャブオット)=聖霊降臨

 

  過越しの祭りの七週後には、七週の祭りが定められています。それは、「五旬節(ごじゅんせつ/ギリシャ語でペンテコステ(50番目という意味))」と呼ばれました。

 

 「使徒の働き」の2章では、キリスト昇天後の五旬節(ペンテコステの日)に、聖霊を待ち望んでいた教会の上に、聖霊のバプテスマが授けられ、人々が変貌したことが書かれています。

 教会はキリストの証人となる力を受けて、福音を世界中に伝え始めたのです。おくびょうだった弟子たちも、この日を境に変貌し、殉教をも恐れない大胆な証人となりました。

 

ラッパの祭り(ロッシュ・ハシャナ)=携挙(空中再臨)

 

 第7の月の1日、ラッパの祭りが行われ、聖なる会合が開かれます。ラッパが吹かれ、ユダヤ人たちはみな集まって主の御前に出ます。これがいつか起こるとされる携挙のひな形です。現在ユダヤでは、この第7の月を新年にしています。

この携挙についての詳細は「今を生きる希望」をご覧下さい。

 

大贖罪日(ヨム・キプール)=大患難時代

 

 第7の月の10日に大贖罪日が来ます。ユダヤ人は一年の罪を覚えて断食します。これは来たるべき大患難時代のひな形です。大患難時代の詳細は、時のしるし4 様々な前兆と大患難時代をご覧下さい。

 

仮庵の祭り(スコット)=千年王国

 

 大贖罪日の5日後から7日間、荒野で過ごした時を覚えて、人々は家の外の仮庵(かりいお)の中で過ごします。これは来たるべき千年王国のひな形です。本当の神の国の到来前の仮の家です。詳しくは最後の審判をご覧下さい。

 

 モーセの定めた例祭が、神の計画のひな形となっていることは驚きです。ユダヤ教徒はその隠された意味を知らないで伝統をしっかりと守っているのです。いつかキリストが彼らの前に現れる時まで、彼らは知らないままでしょう。

 

「宮きよめの祭り」と「プリムの祭り」は、モーセの律法に定められた祭りではありません。後世の歴史的事件を記念して祝われるようになった祭りです。

 宮きよめの祭りは、ダニエル書に預言されていた、シリアの王アンティオコス・エピファネスという「荒らす憎むべき者」に勝利し、宮をきよめたことの記念に祝われました。

 プリムの祭りは、エステル記に書かれた、ユダヤ人絶滅計画の破綻を記念して祝われるようになりました。

 

 

過越しの食事に隠された預言

 

 過越しの祭りの時に行われるユダヤの伝統行事の中にも、実はキリストのひな形が隠されています。その伝統はイエス・キリストの時代も現在もほぼ変わっていません。

しかし、エルサレム神殿が崩壊してからは、過越の羊は、実際にほふられていません。過越の羊は、神が定めた場所でなければささげられないからです。

 

種を入れないパン(マッツァ)の祭り(出エジプト12:-27

 

 モーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させた夜、人々は急いでいたために、パンを発酵させる時間もありませんでした。小麦粉と水を混ぜ合わせると、空気中に漂っているイースト菌(パン種)がパン生地に付着し、パンが発酵してふくらみ始めます。しかし、あまりにも急な出発だったので、民は発酵を待たずに、すぐにパンを焼かなければなりませんでした。パンは膨らまず固いパンになりました。この種を入れないパンのことを「マッツァ」と言い、過越しの夜の記念として食します。パン種は罪を表し、マッツァは罪の混じっていない聖さを象徴します。(第1コリ5:6-13

 過越しは、ニサン(アビブ)の月(第一月)の14日の夕方から始まり、8日間続きます。太陰暦を用いて計算するので、毎年開始の日が変化します。この祭りの前に、家中のパン種を探して捨てます。それが徐酵祭です(出12:39)。

 

過越しの食事(第一日目)

 

 ユダヤの一日の始まりは日の入りからなので、一日の始まりは、夕方の食事からとなります。キリストは、十字架につけられる前に、弟子たちと最後の食事をしました。これがいわゆる最後の晩餐です。その日の夕暮れに、神殿で過越の羊がほふられるのです。

 

 現代のユダヤ教徒は、過越しの食事の際には、式次第(ハガダ)通りに食事を取ります。それは四つの杯を飲む順序で進みます。

 

(※キリストの最後の晩餐は、過越し羊の屠られた後に行われる過越の食事ではなく、備えの日に取られた食事である可能性が高いです。しかし、真の過越しの食事は、キリストの最後の食事で行われた「新しい契約」の締結の時です。※)

 

過越の食事の式次第(ハガダ)

 

第1の杯 聖めの杯

 

 カルパス(苦菜)を塩水につけて食べます。塩水はエジプトでの苦難の涙を象徴しています。

 パン種を入れないパン(マッツァ)が三枚用意され、その内の二枚目をふたつに割り、半分を布にくるんで隠します。この隠される方のパンを「アフィコーメン」と呼びます。その意味とは「後に来るもの」です。これはキリストが布にくるまれ墓に隠されてから復活すること、イスラエルの目にはキリストが隠されて、後で見いだすことのひな形です。キリストは三位一体の第二位格であることも象徴しています。

 

第2の杯 感謝の杯

 

 神がエジプトに下した十の災いを数えて、神に解放の感謝をします。手を洗ってから、マッツァを皆に分けて食べます。

 ジプトでの苦役を思い出すため、マロール(苦菜)をマッツァにつけて食べます。

 エジプトでのれんが作りを思い出すため、ハロセット(果物とナッツとはちみつを混ぜたもの)をマッツァにつけて食べます。

 

 夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。

 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」

 弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。

 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(マルコによる福音書141721節)

 

 キリストは、イスカリオテのユダに対して最後の警告をしました。もしキリストを裏切ったなら、もう後戻りはできないという意味です。この罪は、後でどんなに悔い改めても、泣いて謝罪しても、絶対に許されない罪になるのだと、前もって厳しく警告したのです。

 

 イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」

 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。そこで、シモン・ペテロが彼に合図をして言った。

「だれのことを言っておられるのか、知らせなさい。」

 その弟子は、イエスの右側で席についたまま、イエスに言った。

「主よ。それはだれですか。」

 イエスは答えられた。「それはわたしがパン切れを浸して与える者です。」

 それからイエスは、パン切れを浸し、取って、イスカリテ・シモンの子ユダにお与えになった。彼がパン切れを受けると、そのとき、サタンが彼にはいった。(ヨハネの福音書132131)

 

 キリストはイスカリオテのユダに、パンを差し出しました。ユダはその愛の警告を無視し、食事の席を途中で立って、あえてキリストの警告に挑戦するために去って行きました。ユダはキリストを信じ、様々な賜物を頂いていた使徒でした。しかし、彼は、神よりもこの世を愛して、神を捨てたのです。

 ユダがキリストを売った後、後悔して自殺したのは、このキリストの警告があったにもかかわらず、それを無視して、行動したからです。彼はキリストが復活すると信じていませんでした。だから、ユダは絶望し、復活を見ることなく滅んだのです。

 

 

 過越の犠牲の羊は、神の小羊キリストのひな形でした。キリストの十字架の血の犠牲によって、信じる者はみな、神のさばきを過ぎ越されるのです。

 

 しかし、この最後の食事の時には、まだ羊はほふられていませんでした。実際の羊は、その日の日暮れに屠られることになっていたからです。実は、真の過越の羊、それは神の子羊キリストの十字架です。十字架の上でキリストが亡くなった時刻に、神殿で過越の子羊が屠られたのです。神の子羊キリストの肉と血によって、神は人々と新しい契約を結びます。

 

そして、キリストは有名な大祭司の祈りを捧げます。(ヨハネの福音書14章)

 

 

第3の杯 贖いの杯

 

 第3番目の杯は贖いの杯といい、ユダヤの婚約式の誓約時の杯と同じ「贖い」を意味しています。キリストは愛する花嫁なる教会の身代わりになって、その贖いをするために来られたのです。この杯はその象徴です。

 ここで隠されていたアフィコーメンを取り出し、贖いの杯と共に食します。それはキリストご自身が民のために贖い主となる象徴です。

 

 キリスト教会の行う聖餐式にも、このキリストとの婚約の誓いが秘められています。教会はキリストの体であり、その器官である聖徒たちは、聖餐式でキリストの死を覚え、その犠牲を思い、その帰りを待ち望んで生きるのです。

 キリストの花嫁として、主人キリストとの結婚の準備の献身を新たにするための儀式なのです。

 

 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」

また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。

 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。(マルコの福音書142226)

 

 真の神の子羊は、イエス・キリストであり、その肉と血を飲んで、人々は神のさばきを過ぎ越されるのです。

 キリストは真の過越の子羊として、パンとぶどう酒を取り、それをみなに分け与えました。

弟子たちは、神の子羊キリストを食べたのです。これが過越の食事です。

自分が人々の罪の贖いのための犠牲となって、その肉と血を捧げるというひな形が子羊だったからです。

 キリストはモーセのように、神と人との仲介者となり、自分の肉と血で新しい契約を結びます。キリストの新しい契約は、教会とキリストとの婚約です。キリストは花婿となり、教会は花嫁となります。ふたりは婚約し、花婿は花嫁の贖いのためにいのちを捧げるのです。

 

モーセの古い律法では、実際にほふられた過越の羊を食しましたが、新しい契約では、キリストの肉と血を象徴するパンとぶどう酒を食します。これが真の過越の食事です。

 

 賛美の歌とは、詩編113118篇です。

キリストは、神の小羊となるために、オリーブ山のゲッセマネの園に向かわれたのです。このオリーブ山が、後の昇天と再臨の場所となります。

 

  4の杯 完了の杯

 

 第4の杯は、過越しの食事の完了を告げるものです。キリストは、この完了の杯を、飲まずにオリーブ山に向かいました。なぜなら、過越の完了は、キリストが再臨し、地上に平和をもたらし、神の国が到来した時に、ようやく訪れるからです。ですから、キリストの過越しはまだ完全に成就していません。いつか終末の時が来て、キリストが再臨し、教会が贖われた時に、過越しは完全に成就します。

 

 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。

 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(ルカ221618節)

 

 ユダヤ教徒は今でも、この過越しの食事の式次第を守っています。しかし、その隠された真の意味を知らないまま、二千年間も守っているのです。しかし、いずれ彼らはその意味を知る日が来るでしょう。(イザヤ29章9〜12節、ローマ11章)

 

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