苦難の意味

 

 モーセは約束の地に入る前に、イスラエルの民に向かって言葉を残しました。それが申命記に書かれています。

 

 主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。

 それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。(申命記8章1416節)

 

 イスラエルの民は奴隷の家であるエジプトから、モーセによって脱出し、ついに自由となりました。しかし、すぐに約束の地に入れたわけではありません。40年間という長い間、荒野を通らされたのです。

 その荒野は日本の土地とは全く違い、水も無く、山には一本の木も生えていない恐ろしい荒地でした。助けは何もありません。しかし、神は天からマナを降らせ、水を岩から出し、民を養い続けました。

 しかし、そんな奇跡を見ても、イスラエルの民は不平を言いました。エジプトには自由はなくても、水も食べ物も豊富だったからです。彼らは約束の地よりも、出て来たエジプトの富を思い出し、自分たちで神を作って、エジプトに戻ろうとしましたが、荒野で死にました。

 

 モーセは、この荒野の40年の出来事を思い出しながら語りました。モーセが民に教えたかったことは、神が荒野に民を留めた理由は、彼らに幸せになって欲しかったからであるということでした。

 幸せとは、何不自由のない暮らしだと人は考えます。ところがそんな生活をしている人は、たいてい幸せを感じていません。彼らは幸せになろうとして、様々なことに熱中しますが、幸せの青い鳥は、掴んだ瞬間にはもう無いのです。それはこの世のむなしさです。

 人間はそのようなもので幸せになれるほど小さくは無いのです。人の満足の器は大きく、どんな美食もどんな暮らしも、決してその人を一生涯満足させることはないと、神は知っているのです。

 

われらの心は 汝の中に憩いをみいだすまでは 安らぎを得ない

 

アウグスティヌスはこう告白しました。人は神という大きな存在の中に戻らない限り、決して満足しえ無いと彼は知ったのです。人を満たすことのできる存在は神しか無いのです。

 

人生の荒野

 

 出エジプト記からヨシュア記までの歴史は、まるで信仰の人生のひな形です。この世という奴隷の家からキリストによって救われたとしても、誰もが人生の荒野で試されます。

 キリストを信じたら、繁栄や幸運が降ってくるという教えは聖書的ではありません。聖書は、神を信じても、この世の荒野に直面すると教えているのです。

 そんな時、「神なんかいない。エジプトへ帰ろう」と悪魔は誘います。その声は甘く、もっともらしいかもしれません。しかし、神は必ず天からマナを降らせ、信仰者を養うという約束をしています。

 キリストによって罪を赦され、神の国に入るには、この人生の荒野を通らなければならなりません。その苦難はあなたの前世の罪の結果ではありませんし、信仰が無いからやって来たのでもありません。誰にでも荒野はあるのです。

 しかし、神はあなたに聖霊を与えて下さり、時にマナを降らせてて励ましてくださいます。神は苦難の荒野を通して、かつてのイスラエルの民のように私たちを訓練しているのです。

 

 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

(ヘブル人への手紙12章11節)

 

 いつか時が来たら、荒野の彼方にある約束の地に入る日が来ます。その時、信仰者たちはイエス(ヨシュア)・キリストと共にこの地を奪還するのです。そして大勝利の時が来ます。神はその幸せをあなたに味わってほしいのです。そのための訓練として、今は人生の荒野を通しているのです。

 神はその荒野の旅路を見守ってくださっています。地上の私たちにはそびえ立つ山々しかみえず、途方に暮れる毎日ですが、神は天から約束の地を指し示し、進む方向を導いてくださいます。

 人生の荒野を抜け、キリストと共に住む約束の地、死も病も、悲しみも過ぎ去った愛の国に入る時、そこに真の幸せのゴールがあるのです。

 

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