ここでは、私Ahabaの若い時代の証をさせていただきたいと思います。
キリストとの出会い
私とキリスト教との出会いは、杉並区に住んでいた時に通ったキリスト教教育のひこばえ幼稚園が最初でした。
両親はクリスチャンではなかったのですが、その幼稚園の評判の良さと、
家からすぐ近くにあるということで、兄と私を入園させたのでした。
ここで私は、まるで天国に住んでいると思うほど、本当に幸せな時代を過ごし、神様を信じたのです。
卒園式の時、当時の園長先生が 「大きくなったらこの本を読んで下さいね」 と言って、
ひとりひとりに新約聖書を下さいました。
「絶対読みます」 と、子供ながらにその時は心に誓いました。
やがて、両親が家を建てたので、私が小学校に上がると同時に、一家で引っ越しました。
そこには周りに教会もなく、クリスチャンの人もいませんでした。
次第に私は神様のことを忘れていきました。
私はある女の子と仲良くなりました。
彼女の家は非常に貧しく、嫌われていたので、正義感の強かった私は、
彼女がいじめられていると、むきになってかばいました。
ところが、彼女が数年後に突然引っ越しをしてから、今度は私が代わりにいじめられるようになったのです。
正しいことをしたはずなのに、なぜいじめられるのかわかりませんでした。
どうも自分は人とは違う考え方を持っている。
他の子たちは、建前と本音を使い分けることができるのに、自分にはそれができない。
「原因はあの幼稚園教育だ」と私は思いました。
確かにあそこは素晴らしい建前を教えてくれたけど、この世には裏があって、正しいことをしているだけでは損をする。
神様を信じるなんて子供だましだった。
理想なんて現実には何の役にも立たない。
神様は何もしてくれないのだから、自分の力を信じて生きていくしかないんだと、
私はそこで神様に背を向けました。
私の心は次第に戦場と化し、憎しみで一杯になっていきました。
私は漫画家を目指していました。でも、動機といえば、ただの自己顕示と、嫌な現実を忘れるための逃避のためでした。
「マンガを描いて有名になって、勝って死ねば勝利、人はアメ-バから偶然生まれただけで、
生きること自体に意味なんて全然ないのに、みんなきれい事を言って、自分をごまかして生きているだけ。
この世は弱肉強食なんだから、強者となって勝利するしか生きる意味はないんだ。
人とはそういうものだから、信用なんてできない。結局自分の利益のために人はお互いを使いあう。
そのためにきれい事を説くんだ…。」
それが当時の私の本音でした。
私はあるマンガを描きました。タイトルは「愛の負けた時」。
きれい事を言っても愛なんて結局負けるんだ…。
私はそのマンガを集英社の少女誌に投稿しました。
15歳でしたし、初投稿なので、賞に入ることはないだろうと思っていましたが、
何とそれが予想外に賞に入ってしまったのです。
編集部に呼び出され、担当が付きました。
ところが、本来なら嬉しいはずなのに、どこか私の心には罪悪感が涌いてきたのです。
まるで自分の罪を見られたような気がしました。
一体自分は何のためにマンガを描いているのだろう。
実はそれがお金のためでも、読者のためでもなく、勝利のためでもありませんでした。
ただ傷ついた自分の心に潜む憎しみを知ってほしかったというだけだったのです。
しかし、いざ本当に人に心を知られるなると、何と恥ずかしいものなのでしょう。
そのうちマンガが描けなくなりました。ただむなしさが心に広がっていきました。
そんな時、あの幼稚園時代を思い出したのです。
あの頃は幸せで、先生方はとても優しく、憎しみなど感じませんでした。
ふと、園長先生の言葉を思い出しました。
「大きくなったらこの本を読んで下さいね。」
あの時、絶対読むと心に誓っていたのに、読んでいなかった…。
そこで母に卒園時にもらった新約聖書を探してもらって、読み始めました。一度読み通してこう思いました。
「よくわからないことが沢山描いてあるけど、このイエスという人は、どうも嘘をついていないと思う…。」
そこで、自分の考えでちゃんと確かめたいと思い、独学で聖書を調べ始めたのです。
聖書には、この世では決して教えてもらえないことが書かれていました。
人は単なる偶然で生まれたものではなく、神にあって初めて生きる意味があること。
そのように最初から造られていること。
神から離れると、人はむなしくなること。
弱い者も強い者と同様に、神にあって同じ価値があること。
この世は一時的に神から離れてしまっているけれど、やがて回復の時が来ること。
イスラエルの歴史がそれを証明していること。
永遠があること。
神は愛であること。
光は闇に、愛は憎しみに勝つこと。
死を越えた希望があること。
人の愛は負けることもあるけれど、神の愛は決して負けることがないこと…。
ある日、私はキリストを信じました。
私が信仰を持った聖書の箇所は、旧約聖書・イザヤ書53章でした。
キリストの十字架が、イザヤ書の「苦難のしもべ」の預言の成就であったことは、私には衝撃的でした。
この世から見れば敗北のように見える十字架が、実は神の勝利であったことを、
たくさんの旧約聖書の預言と歴史によって知りました。
人間の空想力や努力では決して作り出せない、世代を越えるこの壮大なスケ-ルの計画に、
人知をはるかに越えた神の存在を私は確信したのです。
神様は現実には何もしてくれないと思っていたのですが、神を信じ始めると、実に不思議なことが、
まず少しずつ私の内側に起こってきました。
神様は私の心の荒野に、一本一本、木を植えて下さったのです。
憎しみは次第になくなり、心が緑の地になって平安が生まれました。
そして、主は雨を降らせて、私の中の汚いものを少しずつ流して下さったのです。
もちろん回復してきても、私の人生の現実という荒野は続きました。
しかし、私が主に信頼する時はいつも、主は私を不思議な方法で養って下さるのです。
ただいつもその時は信仰が試されました。
神の力は、この世の空しい偽りの力といかに違っていることでしょう。
神の栄光は、この世には隠されていますが、御心によって現されるものと私は学んだのです。
主に栄光を帰します。
神の沈黙について
私が受洗したての頃のことです。
ある日、小学校時代の同級生に駅で会いました。彼女はある新興宗教に入っていました。
私がクリスチャンになったと知ると彼女は、「遠藤周作の『沈黙』って読んだことある?」と聞きました。
私は読んだことがない本だったのでそう言うと、彼女は少し笑いながら
「読んだ方がいいわよ」と言ったのです。
私は彼女の真意がわからずに、言われるままに本を買い、読みました。
この「沈黙」という小説は、日本のキリシタン迫害の時代、宣教師ロドリゴが信徒の殉教、拷問を見、また自らも拷問され、
棄教した先輩の宣教師に説得され、みんなの命を救うために、ついに踏み絵を踏んでしまうという物語でした。
その説得した宣教師の台詞の中の、「いかに祈っても神は沈黙され助けてくれないではないか」という言葉が、
この小説の題名になっていたのでした。
私は少なからずショックを受けました。
彼女は私に、「だから信じてもむだよ」と言いたかったのだと思います。
それから私は神の沈黙について考えざろうえませんでした。
もしもいつか自分がその沈黙の中に置かれたとき、神様を捨ててしまうのではないかという恐れと、
やはり神様は結局助けてくれないのだろうかという疑問の中で揺れ動いていたのです。
主イエスは確かに、「私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう」と約束されましたし、
カラシ種ほどの信仰があれば山をも動かすと言われていました。
だから祈りが聞かれなかったのは、あの迫害されたキリシタン達の信仰に、
なにか不純なものがあって聞かれなかったのだろうか、信仰が足りなかったのだろうかと思ってみました。
しかしもしもそうなると、自分に対してもそれを当てはめなくてはならなくなりました。
私はクリスチャンになって、祈りが聞かれる事もたびたびありました。
それを経験するたびに、私は自分の信仰に間違いがなかったから聞かれたとどこかで思っていたのです。
それでは祈りが聞かれない時はどう考えるかと言えば、その逆になってしまうのです。
つまり、それは何か自分の信仰に問題があって聞かれないのではないかと。
私はあることを祈っていましたが全然聞かれませんでした。
私の祈りが聞かれないのは、私の信仰の問題なのだろうか。
祈りが聞かれたあの信徒は信仰がごまほどあって、祈りの聞かれない私の信仰は何か問題があるのだろうか。
そんな風に考えはじめていました。
しかしそうなると、祈りの成就、不成就は、人の信仰のバロメーターになってしまいます。
すると祈りの聞かれない信仰者は、その沈黙について神に不平を言うか、
自らを不信仰者として泣きながら去って行くしかないのでしょうか。見捨てられた者としての恐怖を抱きながら、
純粋な信仰というものを持てない者と人々から烙印を押されて。
私がクリスチャンになる前は、例えば自分に何か悪いことが起きたとしても、それを神様の罰かもしれないとか、
不信仰による結果などと考えて恐れることはありませんでした。
それは不運とか、仕方のないこととして割りきっていました。
自分の運命をただ受け入れてあきらめる。ある意味ではそれは楽な事だったかもしれません。
なぜなら信頼しているものから拒否されていると考える不安がなかったからです。
しかし、キリスト者にとっては話は違います。
神から見捨てられていると感じること、それ以上の恐怖はこの世にはないのではないでしょうか。
何年もそんな不安を抱きながら、私は頼りない信仰生活を過ごしました。
しかし、ようやく自分の間違いを確信することができました。
山上の垂訓を読んだときです。「泣いている者は幸いです」という一文がありました。
泣いている人とは、祈りが聞かれている人なのだろうか、とある日思いました。
いいえ、たぶん聞かれずに、神の沈黙に泣いている人なのではないでしょうか。
パリサイ人は大金持ちで何不自由なく幸せに過ごしていました。
彼らの祈りは、ある意味では聞かれていたのではないでしょうか。
しかし彼らはそれを、信仰のバロメーターとして受けとめていたことに彼らの罪があったのではないでしょうか。
自分の祈りが聞かれたことにより、神によって信仰を認められていると高慢になり、
泣いている者と共に泣くこともなく、神の沈黙に泣く人を自分の正しさを通して裁いていた。
それは私がかつて経験していた事にそっくりでした。
十二年間も神の沈黙に泣きながら信仰を守り、主イエスに癒された病気の婦人。
生まれつきの盲人も、足なえも神の沈黙におびえながら、死の陰の谷を歩いていた人々でした。
そこへ、主イエスがやってきて人々を癒した時、まさに暗闇に住んでいた人たちの上に光りが照ったのでした。
また、イエス自身が神の沈黙に苦しまれた方でした。
「わが神。わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という詩篇の言葉は、
祈りが聞き届けられない悲しみを語っているのではないでしょうか。
私は思うのです。あのキリシタン迫害で神が沈黙されたのは、神に力がなくて救えなかったのではなく、
多くのキリシタンが無惨に迫害されているのを見ても、
何の疑問を持たなかった当時の日本人の心の不毛さを示しているのではないでしょうか。
その様な心の不毛な土地では、まだ実を結ぶ良い状態ではないと、主は後の歴史で示されたのではないでしょうか。
殺された彼らはこの世界では敗北した者のように見えても、神のご計画にあっては大きな働きをしていたのではないでしょうか。
「沈黙」の主人公ロドリゴの行い、それは神が沈黙するのだから自分が代わりに人々を救うという事に他なりません。
それは、一見愛に溢れている行為に見えて、実は神を憎み、反抗し、自らを神とする傲慢を表しているのではないでしょうか。
この世は勧善懲悪ではありません。正しい人が滅び、悲しみ、悪い人が笑っています。
しかし、悪者が罰せられないのは、悪者の罪の目盛りの不足分を満たすまで神が忍耐しておられるからなのです。
また、正しい者が悲しむのは、それによってその人がより成長するからなのかもしれないのです。
ヨブに語りかけられた主は長い沈黙の後、ヨブは何も知らないこと、御心は人間には理解できないことを示されました。
ノアが箱船に入ってからアララテ山に箱船がたどり着くまで、神は沈黙を続けました。
沈黙の向こう側には、人にははかりしれない神の計画があります。
私たちには決して理解できない、しかし全てを益としてくださる神様がいるのです。
それは私たちの父であり、父は子どもにはヘビを与えず、魚を与えてくださるのです。
主に信頼すること、それが大切なのだと私は知りました。
神様は必要なものは全て用意してくださる。必要なものとは時として苦難や悲しみのようなムチもあります。
しかし主は、父が子を訓練するように、私たちに必要なものは全て与えてくださる。
そして見えないけれど、その苦しみを一緒に担ってくださる。
主は私の羊飼なのだから、苦しみの中にあっても自分の十字架を背負いながらついていくのなら、
主は荒野から私たちを救いだし、緑の草にあふれる約束の地を見せてくださる。
約束を信じて羊のように従うこと、これが信仰だと思います。
神の沈黙、それは私たちの信仰を強くも弱くもします。
しかしこの沈黙の向こう側にこそ、私は神がいてくださると信じます。
といっても私はまだ自分がその試験に合格していないと知っています。
でも今はただ私の力ではなく、神様のあわれみによって生かされることを祈るばかりです。
私は真に「試みに合わせないで悪からお救いください」と祈らずにはいられません。
しかしもしも試みる者が来たとき、神の沈黙の中にあっても、
ただ主にすがって生きることができますようにと願っています。
そして私が例え失敗したとしても、神のご計画には間違いがないことを信じ、
私の失敗によって人々がつまずかないことをせつに祈りたいと思います。
アブラハムと杜子春
「人情」を辞書で引くと「自然に備わる人間の愛情」(広辞苑)と書かれています。
私は若い頃から美しい人情話が大好きでした。
私にとって人情とは、殺伐としたこの世界にあっても、人間もまだ捨てたものではないという希望を持たせ、
また生きる勇気を与えてくれました。
どんなに悪い人間でも必ず美しい情けを、心のどこかに持っている。
それが幼い頃の私にとって慰めでもありました。
ところが、この情けが私に大きな問題を投げかけ始めたのです。
特に創世記にある「アブラハムのわざ」は、私にとって大きな疑問でした。
簡単に読み流せば、別に気にならないのかもしれません。
しかし、よく読んでみると、それは私の信仰自体を脅かす問題を含んでいました。
なぜならそこには、私が信じていた美しい「情け」を全く感じることができなかったからです。
老年になってやっと与えられたひとり子イサクを、犠牲として捧げよとアブラハムに語られた神に、私は恐怖を覚えました。
神自身が「あなたの愛しているひとり子」とおっしゃっているのですから、
神はこの命令によって、どれほどアブラハムが苦しむのかを当然知っていたと思います。
だのに、知っていながらそんな命令を下すとは、何と冷たい神だろう。
私にとって、その神の態度は、苦しむアブラハムの心をもてあそんでいるかのように感じました。
ところが、私にはアブラハムの行動の方がより一層理解できなかったのです。
不審に思うイサクの質問をうまくかわしながら、犠牲の息子を誘ってモリヤの山へ行くアブラハム。
イサクを縛り上げ、剣を振り上げたアブラハムの中には、愛するものさえ信仰のためには犠牲にする狂気を感じたのです。
しかし、神はその「アブラハムのわざ」を認めて祝福されました。
神は愛するものまで捧げることを僕に要求するのかと、私はある種の残酷さを感じていました。
私はこの出来事を長い間理解することができませんでした。
というより、理解することが怖かったといった方が良いかもしれません。
神は人の愛を認めてくださらないのだろうか。それを許してくださらないのだろうか。
神には情けがないのだろうか。
もしも、私がアブラハムの立場に置かれていたら、愛する者さえも差し出す事ができるのだろうか。
この様な冷たさに、私はついていくことができるのだろうか。
たぶん日本人なら、その様に感じるのではないでしょうか?
私はこの状況に似ているある有名な物語を思い出しました。
芥川龍之介の書いた「杜子春(とししゅん)」というお話です。
人間不信に陥った若い杜子春は、魔術を使う仙人の弟子にしてもらいます。
仙人は杜子春を山に連れて行き、自分が帰ってくるまでひと言も話さずに待っている事ができたら
仙人にしてやろうと約束しました。しかし、もしひと言でも喋れば仙人にはなれないと命じ、出かけていきました。
しばらくすると魔物が現れて杜子春を脅しますが、彼は頑として口を開きません。
とうとう魔物は杜子春を刺し殺し、地獄へ落としてしまいます。
地獄の閻魔大王の厳しい審問にも、もちろん彼は口を開きません。
あらゆる拷問で彼自身を責めてみても駄目だとわかると、閻魔大王は、死んで畜生道に落ちて馬になっていた
彼の両親を目の前に引き出してきたのです。
鬼たちはその二匹をめちゃくちゃに殴り始めます。
目の前で自分の愛するものが拷問される姿を見ながら、杜子春は仙人との約束を思い出して苦悩します。
もしひと言でも喋れば、仙人になる道は閉ざされるのです。
しかし、目の前の愛するものの苦痛にたまらなくなって、
ついに杜子春は母の首にすがりつき「お母さん」と叫んでしまったのです。
とたんに地獄は幻と消え、先の仙人が現れました。すべては仙人の作り出した幻だったのです。
杜子春は、あのような苦しみを耐えなければ仙人になれないのなら、なれなくてかえって嬉しいと言い、
仙人はそれに対して、もしもお前が、あの時一言も口をきかなかったならば、わしはお前を殺していたろう、と答えたのです。
私がこの物語を読んだ時は中学生でしたが、この物語をとても美しいと思いました。
たぶん日本人の殆どの人が、この物語を読んでそう思うのではないでしょうか。
自分が苦しめられるなら我慢できる、しかし自分の肉親が目の前で殺されそうになっているのに、
それでも信念を曲げないのは何と自分勝手な冷たい者だろうか。
愛する者のために信念を曲げた杜子春は、たとえ約束は破ったとしても、なんと人情が篤く、美しいのだろう。
私は当時、そんな杜子春の情けに感動しました。
そしてその美しい心を認める仙人を、人の心を理解する優しい者だと思っていたのです。
この物語は、先のアブラハムの話と立場が非常に似ています。
アブラハムは、大切なひとり子さえ犠牲にしても、神の命令には忠実でした。
しかしそれとは逆に、杜子春は愛する肉親への情から、仙人との約束を破りました。
どちらを良しとするかというと、日本人は後者を選ぶと思うのです。
杜子春の心を美しいと思っていた私にとって、アブラハムを冷たいと感じたことは自然なことでした。
そして仙人を優しいと信じていた私にとって、聖書の神は厳しい神でした。
日本という土壌で育った私にとって、人情と信仰の問題を考えることは心の葛藤となりました。
作者の芥川龍之介はキリスト教を扱った小説を沢山書いていますが、結局の所、神の愛を理解できませんでした。
それはこの情けを越えられなかった為ではないかと思います。
芥川龍之介がこの物語に秘めているテーマは、キリスト教の唯一神の厳しさに対する、日本人の人情だった気がします。
彼はこの「アブラハムのわざ」を意識して、この物語を書いたのではないかと思います。
自分は自分の肉親を犠牲にしてまで救われたいなどとは思わない。
そんなことを要求する冷たい神など神ではないというのが彼の結論だったのかもしれません。
しかし、考えてみると、結果的に仙人の約束は、決して叶うことはありません。
杜子春が約束を守って沈黙していても、非情な者として殺されましたし、
一言しゃべれば仙人にはなれないのですから、どうやっても約束は履行されるはずありません。
はなから仙人は嘘をついていたのです。
仙人は杜子春のことを全く愛していませんでした。
ただ仙人になりたいという杜子春の高慢を嫌い、試して思い知らせたかっただけです。
しかし、アブラハムの神の約束は本物でした。
文字通り、アブラハムの後の子孫は祝福を受けました。
アブラハムは閉じられた過去の先祖や家族に引きずられず、
自分から始まる多くの未来の子孫たちの無限の祝福を信じたのです。
自分だけ天国に行けても、先祖や家族が行けないなら自分も行きたくないと思うのが日本人の情けです。
一見美しいものですが、結局、自分から始まるはずだった未来の子孫をすべて見棄ててしまうのです。
神の約束は、信仰者が祝福の基となり、そこから家族や後の子孫に神の祝福が及んで行くというものです。
しかし、そこでは信仰が試されます。
アブラハムは天を見上げ、数え切れないほどの星を見上げました。
過去の先祖たちではなく、まだ見ぬ未来の子孫をそこに見たのです。
もし自分が過去の先祖と同じままでいたら、未来の子孫たちも祝福されません。
彼は未来の子孫を選びました。
そして神の約束を信じ、義とされました。
しかしなぜ、アブラハムにこの様な試練が必要だったのでしょう。
アブラハムはイサクを心から愛していました。
愛していなければ、それは試練ではなかったでしょう。
それは、アブラハムにとって、イサクへの愛をとるか、神への愛をとるかの二者択一を迫られたのと同じでした。
アブラハムがイサクを捧げなかったら、アブラハムは主よりもイサクを愛していたことになり、
それはとりもなおさず、彼が主の僕ではなく、イサクの愛の僕だったことになります。
人情は時に神の座をおびやかす偶像にもなりえるのです。
しかし、アブラハムはモリヤの山上で、行いによる信仰を見せました。
愛するイサクに向かって剣を振り上げ、天を見つめながら、私が愛しているのはただ神だけですと、
沈黙を続ける見えない神に向かって叫んだのです。
その壮絶な愛の証を見たとき、神はその行為の中にアブラハムの真の愛を認めたのではないでしょうか。
確かに彼は、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神を愛したと。
そうまでしなければ、神は愛を認められないのかと人は言うでしょう。
しかし、愛を認めるというのはそのようなものではないでしょうか。
人は行いなくして真実に愛を知ることができるのでしょうか。
アブラハムの姿は、まるで神ご自身が、背いている私たち人間に、愛するイエスを十字架につけて見捨てる程に、
わたしはあなたを愛しているとささやく姿に似ています。
父なる神は、なぜひとり子をお見捨てになり、私たちの為に十字架につけたのでしょうか。
それは、どれほど神が人を愛しているかを示すためではないでしょうか。
この犠牲を理解して欲しいと、証しするためではないでしょうか。
その様な必死の証を知った時、私たちは神の愛を疑わずに信じることが出来るのではないでしょうか。
逆に言えば、そのような証なくして、本当に私たちは主に愛されていると信じることが出来たのでしょうか。
主イエスの十字架は、神による人への愛の証だと思います。
もしも、神が杜子春のような人情を第一にされていたならどうでしょう。
愛する我が子が殺されて行くのを黙って見ている位なら、自分がひとこと声を出して彼を救い出せばよい。
その結果、購いが未完成で人類が滅んだとしてもかまうものか、と仰ったかもしれません。
しかし、その結果は、後の世に恵みは決して流れ出なかったことでしょう。
十字架は神ご自身にとっても愛の試練だったと思います。
アブラハムが心を尽くして主を愛したように、神も私たちを一途に愛してくださることを、私は感じました。
背いている人を命への道へ招こうと、ご自分のひとり子を捧げてまで、和解を願われる真剣な主こそ、私は愛だと信じています。
この神の愛を理解したとき、私には冷たいと映った神が、暖かい父なる創造主に変わり、
狂っていると思ったアブラハムが信仰の父となりました。
私の中の固い日本の土壌がその時砕かれたのです。
弱い私も聖霊の力を頂いて、信仰の父であるアブラハムのわざを模範にしたいと願っています。
そして、日本人が、厳しさの中にも愛をもって育て、命に導かれる父なる神の愛に、
心から立ち帰ることが出来るようにと祈っています。
荒野の彼方
人の幸せとは一体何でしょうか?
子供の頃の私にとって、幸せとは形のない漠然としたものでした。
たぶん、それはおとぎ話に決まって出てくる終わりの台詞、「そしてみんな幸せに暮らしました」という様なものだったと思います。
あの頃はみんなが幸せになれると信じていました。
青春時代が来て、私は悩み始めました。
私の目から見た青春というものは、表向きは美しくても、 裏には期待はずれのものが沢山ありました。
三角関係、嫉妬、嘘、讒言、足の引っ張り合い等々、それらは全て、幸せを求めるが故の幼い戦争だったのかもしれません。
誰もがおいてけぼりになるのを恐れて走っている、そんな時代でした。
私はそれを眺めているだけでうんざりしましたが、誰でもその戦いに勝利しなければ幸せになれないのなら、
戦うのが当然であり、勝者がいれば敗者も必要なのだと思いました。
ですから、その様な戦いに勝ってゆく人々が、自分の気持ちに正直な勇敢な人に見え、またその後ろ姿を羨ましくも思っていました。
しかし、そこでは「みんな幸せに暮らしました」という台詞は、おとぎ話の夢でしかありませんでした。
幸せな勝利者と不幸な敗者、敗者のレッテルを貼られるのを恐れて、ひたすら走る暮らしが待っていました。
私は次第に勝者の幸せのテクニックを知りました。
それにはまず、不幸な敗者を忘れることです。
不幸な人は、大抵溺れる遭難者のように、助けてくれる人に縋り付こうとするので、
下手をすると大きな重荷になり、勝利に向かって走る重荷になるだけです。
ですからそんな人とはできるだけ付き合わず、その存在さえ見ないふりをして、
力ある勝者だけを選んで付き合うのです。
おのずとそのような関係ができれば、幸せの囲いが出来あがります。
そして、その囲いから、死、病、苦悩などの悲しみも追い払って忘れてしまうのです。
なぜなら、それらを考えること自体が不幸だからです。
いずれ訪れる現実の厳しさから目を背け、今の生活を楽しく平凡に生き、そこで笑い合い、楽しみ合って、
苦しみを忘れて、人の重荷は背負わないで過ごす幸せな時を、できるだけ長く持つこと、それがこの世の幸せの形でした。
私はどれほど、この幸せを自分のものにしようと願ったことでしょう。
その様になれたらどんなに幸せだろうと真剣に思ったことでしょう。
しかし、できませんでした。私が善人だからでしょうか?いいえ、違います。
私には勝利者になるだけの力が無かったのです。
力もないのに囲いの中に住もうとする私は、いつ追い出されるかとびくびくしながらおびえ、
他人と自分の幸せを測って比べ始めました。あの人よりは幸せ、あの人よりは不幸。
私は囲いの中、あの人は外、あの人は囲いから追い出され始めている、ああならないようにしなければ。
まだ自分は人よりも前にいるという安心感。でもいつかは自分が囲いから追い出され、見下げられるのではと心配する焦燥感。
こうした妬みと優越感に浸りながら青春時代を過ごすうち、
私は次第にこの自分の心の中で繰り広げられる幸せの戦いに疲れを感じはじめました。
いつまでたっても追い求めるだけで平安がないのです。
私は何もかもが嫌になりました。自分の幸せのために戦うはずの戦いが、私を苦しめていることに気づいたからです。
なぜ人の不幸を喜び、人の幸せを妬まなければならないのだろう。
いつのまにか他人よりも、自分の幸せばかり考えるようになってしまったのはなぜなのだろう。
そのうち、この世界では、他人より幸せであると思うときに、自分の幸せを感じるという暗黙の了解があると気づいた時、
私の求める幸せの形はどこか違うと思ったのです。
私は、本当の幸せは何なのかを考えたいと思いました。
悩む私に、そんな風にしているといつか後悔する、考えたって変わりはしないし、
人生は短いのだから若い時代を楽しみなさいと忠告してくれる人もいました。
確かに時として、彼らの語る幸せこそがやはり人の幸せなのではないかと思うこともありました。
若い時代をきらきらと燃焼させて輝いて見える彼らの生き方こそが、たとえ桜のように散ると知ってはいても、
人の生きる意味なのではないかと。
自分はひょっとすると、ただ咲く時間を浪費しているだけなのではないかと。
私は、聖書を読み始めていました。聖書は、その様な幸せを求めるようにとは語っていませんでした。
しかし、どの様な幸せを求めていけばいいのかは、その時はよくわかりませんでした。
私は囲いを慕うことをやめました。自分が敗者であることを素直に認め、さまざまな悲しみを忘れることをやめたのです。
囲いの外へ目を向けると、そこは荒涼とした荒野でした。
人の死も病も悲しみもそこにはありました。それは人生の現実でした。
それを考えることは、それだけで私の心に痛みを感じさせました。
できれば、忘れてしまいたいと何度も思いました。
なぜなら、その痛みは大きく、私を押しつぶしてしまいそうだったからです。
そんな頃、私は心を変える旅行をしたのです。
私はイスラエルからシナイの荒野を回りました。
そこで地平線の向こうまで続く本物の荒野が広がっていました。
草も木も水もない死の陰の谷、生き物の住めない赤い静寂の山々。
はるか彼方まで続く絶望的な死の世界。
その厳しさに、ただただ圧倒されました。
日本の豊穣な山々とは全く違って、そこには頼れるべき何物もありませんでした。
かつて、イスラエル民族は、神によって導かれ、奴隷の家であるエジプトを脱出し、荒野で試みられました。
厳しい荒野の生活に、民は神に信頼せず、エジプトの奴隷の家を慕ってつぶやきました。
しかし、つぶやきを聞かれた神は怒り、その世代の民は荒野で滅ぼされました。
赤い荒野の山々は、私の心にもつぶやきをおこさせました。
なぜ神はイスラエルの民に荒野を通らせ苦しめたのだろう、
神なら、奴隷の家からすぐに約束の地へ民を導くことも簡単だったはずなのに。
そうであったのなら、民は決してつぶやくこともなかったはずなのに。
なぜ、神は私たちを試みるのだろう。
すべてに満足を与えて幸せにして下さらないのだろう。
なぜ沈黙したまま、遠くから眺めているだけなのだろう。
全能の神であるなら、おとぎ話の夢を現実にすることもできるはずなのに。
帰国してから、私はあの荒野を思い起こしながら、旧約聖書を読み直しました。
荒野を見る前に読んだときとは、全く違った印象がそこにはありました。
そして、私は次の御言葉にはっとしたのです。
「 主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい
荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、
あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。
それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。」
(旧約聖書/申命記 8章16節)
荒野は人を幸せにするため…。
それまで、私には、苦しみも、試みも、幸せどころか不幸に導くものとしか見えませんでした。
しかし、神はその荒野こそが人を幸せに導くと語るのです。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」 (新約聖書 マタイによる福音書 5章4節)
それまで、イエスの言われたこの言葉は、私にとって美しい言葉であっても現実的ではありませんでした。
悲しむ者は、少しも幸いには見えないではないかとーー。
でもそれはまだこの世の幸せの形でした。
悲しみのない人は、それ自体が自分の正しさを表す自己弁護になることでしょう。
彼らには神は必要ありませんし、悲しむ人へのあわれみも学べず、自らが神にさえなることでしょう。
私も悲しまなかったなら、たぶん人を見下していたことでしょうし、悩まなかったら奴隷の家にずっといたことでしょう。
悲しみや苦しみによって学んだことは、喜びや成功によって学んだことよりも確かに多いのです。
しかし、荒野の自由はとても苦しく、辛い自立が求められます。
悲しみ、苦しみ、怒り、悩み、そして孤独。
人は、二つの道の帰路に立たされます。
豊かな奴隷の家か、厳しい自由な荒野か。
人をしあわせにするために荒野を通す、と 神は教えます。
人を子として訓練しながら、共に歩み、約束の地へ導くと。
天からパンを与えて養うという約束を添えて。
しかし、今日も荒野の中で、私は試みられ、時にはつぶやいています。
目的地が近いのか、遠いのかもわからず、常に行く手にそびえ立つ現実という山々を見て途方に暮れ、
谷底で不安と恐れに打ちふるえます。
神の御心である行いを行えず悲しみ、かつての幸せの基準から抜け出せずに悩み、
自分の十字架を重く引きずりながら疲れ果て、時として自分が愛されているかを疑い、
時として、あまりの辛さに約束を疑います。
そんなみじめであわれな弱気の私に、ふと異教の神々の優しく甘い語りかけが聞えてきます。
「神は何というひどいお方だろう、あなたを荒野でひからびさせようとしているのだ、
お前は神に見捨てられているのだ。いやちがう、もともと全能の神など、どこにもいないのだから助けがないのだ。
約束の地などは夢の国であり、砂漠は永遠に続くのだ 」
荒野は敵の地であり、悪魔の誘惑が吹き荒れています。
かつてのイスラエルの民の悩みと試みは、今を生きる私の試みと同じです。
キリスト教は、優しい慰めや愛を語る宗教だと誰もが思っています。
信じれば、約束の地にたやすく入れるものと思う人もいるでしょう。
また、その様に話す伝道者も大勢おり、その言葉だけを信じた人たちは荒野の苦しみに驚いて、
すぐに奴隷の家へと帰ってゆきます。
しかし、実際は、信じた時から見えない戦いが始まっていることを、聖書は教えていると思います。
神を信じる者が、本当に信じなくてはならないのは、荒野を緑に変える神の力ではなく、
このむごい荒野でつぶやく罪人を、忍耐を持って訓練し、養われる、神の愛ではないでしょうか。
今日も高きところにおられる父なる神は、荒野の死の陰の谷を歩く私の姿も、
彼方の約束の土地も同時に見ておられるはずです。
そして私が今どこにいるのかを、今日もはらはらと見守っていてくださっているに違いありません。
しかし、人生という荒野にあって、この弱い私も、ヨシュアによって率いられたイスラエルが約束の地に入ったように、
人の罪の十字架を担って前を行く、牧者ヨシュア(イエス)に従いながら、共に歩んで行ける様にと願っています。
荒野の彼方にある約束の地、すべての人が幸せに暮らせる希望の家に、いつの日かたどり着くことができますように。
私が試みられ、苦しめられ、ついには私がしあわせになるためにーー。
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
(旧約聖書 詩篇 121篇)